ルンタへの旅 6

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    ダライ・ラマ14世のノーベル平和賞受賞とチベット受難の歴史を伝えるTBS「報道特集」。その放送日はノーベル平和賞の授賞式が行われる12月10日に決まった。だが肝心のインド政府の取材許可が下りない。ちょうどその頃、インドは総選挙に突入し、その取材のため海外からメディアが殺到し、難民であるチベット人を取り上げる僕の取材申請は後回しにされてしまったのだ。
    撮影クルーに先行してデリーに入っていた僕は、取材許可が1日も早く下りるよう情報省に日参した。放送日から逆算して明日には撮影クルーが入らないと間に合わないという状況のときだった。いつものように下級官吏の部屋で談判を始めると、僕が提出した申請書がなんと目の前の木箱に無造作に積まれているではないか。聞けば、その申請書はあと3つ別の役所を回らなければならないという。僕は絶望的な気分になった。そのとき白のスーツに身を固めた、いかにも高級官吏といった風情の役人が部屋に入ってきた。恥ずかしい話だが、そのときとっさに僕がとった行動は、土下座だった。
    いまでもなぜ自分が土下座したのかわからない。取材...者としてあるまじき行為だと思うし、若気の至りとしか言いようがない。だが、その時の僕はそれぐらい追い込まれていた。土下座をしながらボロボロと涙がこぼれたのを思い出す。
    信じられないことだが、結果的にはこれが効いた。白スーツの役人は僕を抱きかかえると少しうろたえながら言った。「わかった」と。取材許可が一発で下りたのである。
    繰り返し言うが、僕がとった行動は決してほめられたことではない。ただ、僕のその姿をコーディネーターを務めるチベット人たちが見ていた。彼らは、その後の取材で何度も僕を助けてくれることになる。きっと僕の熱意が伝わったのだろう。

    (写真はコーディネーターのティンレーとロプサン。左端が僕。1989年ダラムサラで)


    ルンタへの旅 5

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      1989年はまさに世界が激動する年だった。6月には中国で天安門事件が発生し、民主化を求める人々のうねりは東欧に伝播した。そして11月、ついにベルリンの壁が崩壊する。だが、昭和天皇が崩御したこの年の初め、チベットでは先代のパンチェン・ラマ10世が不審な死を遂げ、さらに3月、ラサの僧侶たちが抗議行動を行い、これに対して中国当局が厳しい弾圧を加え、その後の1年間、チベット自治区に戒厳令が布かれたのを知る人は少ない。
      チベットの番組企画で悪戦苦闘する僕にとっては、皮肉なことに天安門事件が追い風となった。学生や市民に人民解放軍が発砲し多くの犠牲者が出たことに対して、日本のメディアにも中国がどうなっているのか真実を報道する機運が生じたのだ。さらに12月、この年のノーベル平和賞が非暴力を提唱するダライ・ラマ14世に贈られることになり、僕の企画はTBS「報道特集」のプロデューサーの目に留まることになる。実はインドに旅に出る前、僕はTBSの夕方のニュース番組にADとして派遣されていたのだが、そのときの先輩ディレクターが「報道特集」に異動していた...ことも幸いだった。「よし、やろう」と腹を決めてくれたのだ。
      かくして、チベットの今を伝える報道番組が動き出す。だが、ここからが大変だった。ダライ・ラマや亡命チベット人を取材するにはインド政府の取材許可が必要だが、それがなかなか下りなかったのだ。(つづく)

      (写真は1989年インド・ダラムサラのナムギャル寺で問答を行う修行僧たち)


      ルンタへの旅 4

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        インド放浪中のラダックでチベット人に助けられた僕は、帰国後、チベットのことを一から学び、1950年に中国が侵攻してからの受難の歴史を知る。
        その頃わくわくしながら読んだのが、オーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラ―が書いた「チベットの7年」。第二次世界大戦中、インドの捕虜収容所を脱走したハラ―がヒマラヤを越えてチベットに潜入し、若き日のダライ・ラマ14世と親交を結ぶ自伝文学の傑作だが、多くの方にはブラッド・ピットが主演する映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」の原作本と言った方がわかりやすいかもしれない。
        その後、僕は1987年にテムジンという番組制作会社の創立に参加するが、自社制作の番組企画として僕がこだわったのはダライ・ラマへのインタビューとダライ・ラマとともにインドに逃れて30年になろうとする亡命チベット人の暮らしだった。2年後、それはTBS「報道特集」に結実するのだが、はじめこの企画は困難を極めた。NHKを含め在京キー局のすべてを回ってが通らない。ダライ・ラマはタブー視されていたのである。
        調べてみると、北京に支局を置...く各メディアは、いわゆる「日中記者交換協定」なるものに縛られていることがわかった。これは日中国交回復以前に政府間で結ばれた協定なのだが、これには、‘本政府は中国を敵視してはならない  米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄さない  中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない、という「政治三原則」が明記されている。これによって中国外務省報道局は日本の報道機関の報道内容をチェックし、この「政治三原則」に抵触すると判断した場合は抗議を行い、記者の追放や常駐資格の取り消しなどの処分を行ってきた。簡単に言えば、中国に不利な報道をすれば支局が潰されるということである。だから中国政府が分裂主義者と非難するダライ・ラマの企画などとんでもない。触らぬ神に祟りなしというのが僕が放送各社に企画を持ち込んだときの大方の反応だった。
        だが1989年、転機が訪れる。世界が激動したこの年に。(つづく)

        (写真はTBS「報道特集」に出演していただいたときのダライ・ラマ法王とインド・ダラムサラで亡命チベット人を取材中の僕)


        ルンタへの旅 3

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          高山病にかかってしまった僕がベンチでうずくまっていると、ひとりの男に声をかけられた。だが、激しい頭痛のため何を言っているのかよくわからない。身振りから察すると、どうやら「動くな」と言っているらしい。動くと死ぬぞと……。得体のしれない恐怖が僕を襲う。しかもあたりは真っ暗だ。
          しばらくすると数人の男たちがやってきて言い争いをはじめた。そして僕を担ぎあげると急ぎ足で歩き出した。どこに連れていかれるのだろう? だが、そんな不安よりも助けてほしいという気持ちの方が強かった。
          僕が運びこまれたのは最初に声をかけてくれた男の家だった。僕の状態を危険とみて介抱するため家に泊めようとしてくれたのだ。部屋に寝かせられると、しきりに水を飲むよう勧められた。そして僕に食欲がないのがわかると、家で採れたというりんごを持って来てくれた。
          結局、彼の家には5日間お世話になった。僕に与えられたのは陽の光がたっぷりと差し込む部屋だった。手厚い看護のおかげで僕の体は徐々に回復に向かい、標高3650メートルのレーの町の高度に次第に順応していった。そして体力が完全に...戻ったのを確かめてからは、町から20キロほど離れたティクセゴンパ(寺院)を歩いて訪ねたり、結婚式に招かれたり、美人の先生が教える小学校の授業を見学したり……、初めて見るものに興奮し、人との触れ合いに感動しながら、デリーの暴動とは打って変わっての心の安らぎに身をゆだねた。
          これが、僕がチベット人と最初に出会った小さな物語である。見知らぬ異国の旅人をまるで家族のように暖かく迎えてくれたラダックの人たち。この日から僕にとってチベットは、感謝の気持ちを思い起こさせてくれる特別な対象となり、つねに気になる存在となった。
          苦しみの中で食べたあのちょっと酸っぱいりんごの味は、生涯忘れないだろう。
          (写真は小学校の授業風景とラダックの結婚式)


           

          ルンタへの旅 2

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            写真を整理していて驚いたのだが、ラダックの一枚にしっかりと「ルンタ」が写っているではないか。すべての願いを叶える如意宝珠を背中に背負い、天空を翔け、人々の願いを仏神のもとに届けるという“ルンタ(風の馬)”。もちろん当時の僕は、それが何を意味するのかまるでわかっていなかった。
            話を昨日のつづきに戻そう。当時ラダックへ行くにはデリーから列車でジャンム・カシミール州の州都スリナガルへ行き、そこからバスでさらに2日かけて行くしかなかった。普通なら途中の宿場で1泊するのだが、僕らを乗せたバスは倒れた巨木に道を塞がれ、あわれ立ち往生。結局、車内で1泊するはめになった。季節は11月。外は雪が舞っている。なのにインドのバスは窓が閉まらない。僕はいっぺんに風邪をひいてしまった。そんなことはお構いなしに、翌日バスはどんどん高度を上げて行く。途中4000メートル前後の峠を2つ越えた。夕方、ようやくバスはラダックの中心都市レーに到着したが、僕の体調は最悪だった。どうやら高山病にかかってしまったようなのだ。高山病の症状はいろいろあるが、その時の僕はこれまで体験したことのない激しい頭痛に襲われた。一歩足を踏み出すたびにハンマーで殴られたような鋭い痛みが走る。僕はバスターミナルのベンチにうずくまり、一歩も動けなくなってしまった。(つづく)
            (写真はラダックで撮影したルンタと僕が乗ったバス)

            ルンタへの旅 1

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              チベットに想いを寄せるようになって、もう30年以上がたつ。映画完成までの長い道のりを「ルンタへの旅」と題して、今日から少しずつ綴っていきたいと思う。

              僕が初めてチベット人に出会ったのは、勤めていた番組制作会社を辞め、インド放浪の旅に出た1984年のことだった。26歳。初めての海外旅行だった。デリーに着いた僕は、3日後、いきなり暴動に巻き込まれる。当時の首相インディラ・ガンジーが宗教間の対立が原因で暗殺されたのだ。暴動は次第にエスカレートしていき、僕が泊っていた安宿はあわや放火される寸前という始末。どうやったら屋上伝いに駅まで逃げられるか、そんなことばかり考えていた。デリーは危ない。どこか安全なところへ避難しよう。ふとガイドブックに目をやると、北インドにラダックというところがあり、そこは失われゆくチベット文化を留めた「天空の楽園」だという。こうして僕はまったく予定していなかったラダックを目指すことになるのだが、「天空の楽園」は初めから僕を歓迎してくれたわけではなかった。ラダックに到着した僕は重い高山病にかかってしまったのだ。(つづく)
              (写真は僕が撮影した1984年11月のラダック。左下は26歳の僕)

               


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