ルンタへの旅 11

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命がけでヒマラヤを越える亡命者たち。その数が年間2〜3千人に達することは以前書いた。だが、3月にラサで大規模な抗議行動が発生し、チベット自治区に戒厳令が布かれたこの年は、わずか400人しかインドに逃がれることができなかった。どんな思いで険しい山を越えるのか。それが知りたくてダラムサラにある難民一時収容所を訪ねた。
コンクリートの床に粗末なベッドが並ぶ、殺風景な部屋。寝起きしているのは20人ほどだろうか。11月の終わりとあって朝晩の冷え込みは厳しい。それでも着のみ着のままでヒマラヤを越えた彼らには、やっと得られた安らぎの場所なのである。
何人かの収容者に話を聞くことができた。20代の尼僧は刑務所に入れられ、その費用まで払うよう命じられ逃げてきたという。彼女はダライ・ラマの写真やカセットテープを持っていただけで捕まったのだ。初老の男性は、かつて中国軍と戦い大勢の中国人を殺したという罪で18年間、刑務所に入れられていた。釈放後はラサに住んでいたが、法王に一目会いたくてインドに亡命した。
部屋の片隅で赤ちゃんに母乳を与えている母親がい...た。聞けば、山越えの途中で出産したという。抗議行動に加わった夫が指名手配を受けたため、自分とお腹の子を守るため亡命を決意した。
彼女の話を聞いているうちに不覚にも涙がこぼれた。
「逃げられるかどうか、本当に心配でした。もし失敗して捕まれば、ひどい目に遭いますから。近道もあるのですが、そこには中国軍がいますから、私たちは山の方を遠回りして2ヶ月半かけて逃げてきました。山の上を通った時は、とても寒い思いをしました」
チベット人の強靭な精神力にまたしても触れた思いがした。(つづく)
(写真は1989年12月10日放送のTBS「報道特集」より)

映画「ルンタ」公式ツイッター @eiga_lungta
池谷薫ツイッター @ikeya_kaoru


ルンタへの旅 12

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パレスの庭には巨大なパラボラアンテナが建っていた。「アメリカの友人がプレゼントしてくれたものです」。にこやかな表情で法王が説明する。「中国のテレビも見ることができるのですよ」と。
中国のテレビはチベットをどう伝えているのか。89年3月にラサで起きた抗議行動では、一部のチベット人が暴徒化し、治安部隊に投石したり、商店や車に火を放つ映像が繰り返し流され、次のようなコメントが付けられた。
「少数の分裂主義分子が人々の利益に背いて狂気じみた騒乱流血事件を引き起こした。解放前、封建農奴制のもとでチベット人民が強いられた苦しい生活のことは誰の記憶にも新しい」。
一方、我々が独自に入手した映像には、それとはまったく異なる映像が映し出されている。チベット仏教の聖地ジョカン寺の内部で、中国の治安部隊が僧侶たちに殴る蹴るの暴行を加えているのだ。この映像は当局側の何者かがリークしたものと見られているが、今でも見るたびに怒りがこみ上げてくる。画像をご覧になりたい方はこちらから。https://youtu.be/rYYRamjs874 (つづく)

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(写真は1989年12月10日放送のTBS「報道特集」から)

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ルンタへの旅 13

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力に頼るより非暴力の方がよほど現実的だ。それがダライ・ラマ法王の信念だが、かつてチベットは流血の武装闘争を行ったことがある。しかし、この武力闘争は法王が指示したわけではない。法王は16歳で政治的な指導者になって以来(2011年まで)、一貫して非暴力主義を貫いている。
「チュシガントク」というゲリラ組織があった。彼らはネパールのムスタンを拠点に法王のインド亡命後も中国軍と死闘を繰り広げた。武器を援助したのはCIA。訓練の一部はサイパンや沖縄などの米軍基地で行われた。
しかし70年代に入りアメリカと中国の正常化が進むと、ゲリラへの援助は突然停止された。チベットはまたしても国際社会から見捨てられたのだ。ダライ・ラマ法王からも戦いをやめるよう命じられ、チュシガントクの戦士たちは悲嘆にくれた。その時の思いを元ゲリラのひとりが語ってくれた。
「ダライ・ラマ法王の命令に従わなかったら、この世ばかりか来世でも罪を負わなければなりません。戦いたいという思いと法王の命令にはさまれ、多くの仲間が水に飛び込んだり首を吊ったりして自ら命を断ちました」(...つづく)
(写真は1989年12月10日放送のTBS「報道特集」より)

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ルンタへの旅 14

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1966年から10年間つづいた文化大革命はチベットの伝統文化と信仰生活を完膚なきまでに叩きつぶした。チベット全土に6千を数えた僧院は、そのほとんどが破壊され、僧侶・尼僧の多くが強制的に還俗させられた。現在もつづくチベット人の抵抗は、このときの悲痛な記憶と底流でつながっている。
文革が終わり80年代に入ると、チベットにも一時的ではあるが開放的な雰囲気が流れた。先代のパンチェン・ラマ10世の奔走により、文革中廃止されていたチベット語教育が復活。破壊された僧院の再建も許され、新しく僧侶になる者も急増した。
この時期、ダライ・ラマ法王は調査のためチベットに使節団を派遣。各地のチベット人から熱狂的な歓迎を受けた。その熱狂ぶりは、それを見て慌てた中国側が使節団の滞在日程を短縮したほどだったという。
しかし、「チベットの春」は長続きしなかった。80年代後半、ラサの三大僧院の僧侶たちがチベット独立を求めて平和的デモを行うと、中国当局はこれを武力で弾圧。多くの命が奪われた。その後90年代半ばまでデモは続くが、ほとんどの参加者たちは、逮捕された後...、刑務所で厳しい拷問を受けた。
(写真は使節団の訪問を歓迎するチベットの民衆。1989年12月10日放送のTBS「報道特集」より)

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ルンタへの旅 15

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チベットにサッカーのナショナルチームがあるのをご存じだろうか。チームのイレブンは、インドに暮らす約13万の亡命チベット人の代表選手。その代表チームが2001年にデンマークで初の国際試合を行うのだが、これが波乱に次ぐ波乱の連続で、涙なくしては語れないドラマなのだ。相手はデンマーク領のグリーンランド自治州。なんかもうこう書くだけで波乱の様子が伝わるような気がするが、試合が成立するまでの過程をデンマークのTVプロダクションが追いかけており、日本でも「チベットサッカー 悲願の海外遠征」と題して2004年にNHKBS世界のドキュメンタリー」で放送した。日本語版を制作したのは僕である。
番組は、初の国際試合を思い立ったチベットサッカー協会の会長が、試合に向けて奮闘努力する姿を中心に進行する。選考会を経てインド各地から集められた代表選手たちはダラムサラで1ヶ月に渡って合宿を行い、デンマークから招集されたコーチに鍛えられる。だがそのレベルは低く、デンマーク人コーチが「マイナーリーグの水準にも達していない。デンマークで恥をかかなければいいが」と本音を吐く始末。おまけに練習場は正式なサッカー場の半分の広さしかなく、練習中に放牧された牛が横切るような有り様。しかも雨の多いダラムサラとあって、グラウンドはいつも水浸しだ。
しかしチームが抱える本当の問題は、むしろピッチの外にあった。難民である彼らはパスポートを持たず、国籍もない。会長がデリーのデンマーク大使館にビザの申請に訪れるが、提出した書類に不備が見つかる。(身分証にインドへの再入国を許可するスタンプが捺されていない等)。結局、当初選ばれた選手の半数ほどが渡航許可を得られなかった。そのひとりの正ゴールキーパーは、「僕はチベットで最高の選手なのに、デンマークには行けない」と泣きながら合宿所を去っていく。この緊急事態に、会長はヨーロッパ在住のチベット人選手をかき集めて乗り切ろうとする。
苦労の甲斐あって初の海外遠征は実現し、代表チームの選手たちはデンマークのピッチに立ち「人生最高の幸せ」と歓びをあらわにする。しかし、またしても試練が訪れる。次に彼らの前に立ちはだかったのは、在デンマーク中国大使館だった。「チベットは中国の一部だから、今回のチームはナショナルチームではなく、国際試合とも呼べない」と強硬に主張し、あらゆる手を尽くして試合の阻止に動きだすのだ。(つづく)


 

ルンタへの旅 16

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中国政府の妨害工作は執拗だった。グリーンランド政府に対しては「試合が実現したら、中国製品の輸入に重大な影響がでるだろう」と脅しをかけ、スタジアムの管理団体にも中止を要請する。チベット国旗の掲揚は絶対に認めないと。だが、管理団体の評議委員会は、協議を重ねた末、予定通り試合を行うことを決定する。「これは政治ではなく、スポーツなのだ。公式の試合かどうかなんて関係ない。チベットとグリーンランドがやるのだから国際試合なのだ」と。

かくして試合当日を迎え、チベットチームのロッカールームに互いの健闘と世界の平和を願うチベット仏教の声明(しょうみょう)が響きわたる。代表チームのユニホームは赤と青の縦じま。チベット国旗の配色だ。選手たちがピッチに飛び出すと、スタンドはチベット国旗とグリーンランド国旗を打ち振る人々で埋め尽くされていた。きっとヨーロッパ中に散らばる亡命チベット人たちが、この日のために集まってきたに違いない。

試合が始まる。チベット代表の先制シュートが決まり、ナショナルチーム初の得点に沸く選手とコーチたち。スタンドも熱狂に包まれる。前半は11で終了。ハーフタイム、試合の実現に奔走したチベットサッカー協会の会長が檄を飛ばす。「平常心を忘れるな」と。

しかし、後半は地力に勝るグリーンランドが立てつづけに得点を挙げ、チベット代表はじりじりと追い込まれていく。追い打ちをかけるようにキャプテンが足を負傷し戦列を離れる。最後のシュートもわずかにゴールの枠を外れた。14。健闘むなしくチベット代表は敗れた。

だが、選手たちは晴れ晴れとした表情で観衆に手を振る。感極まった会長が涙を浮かべながらインタビューに答える。「ここに来ることができて本当に幸せだ」と。そして最後を締めくくるように、こう続けた。「これは単なるスポーツの試合ではない。我々は自由を得るために闘ったのだ」と。渡航前に彼が選手たちに繰り返し言った言葉がよみがえる。「試合だけでなく、振る舞いを通じて、チベットに長い歴史を持つ豊かな文化があることを示すのだ」。

スポーツに政治の話を持ち込むなというのは、ここでは意味を持たないと思う。難民であるチベット代表は、その存在自体が政治と切り離せないからだ。だが、2001年のこの日、コペンハーゲンで戦った代表チームのイレブンは、政治では決して得ることができない、宝物を手にしたに違いない。いま、生きているという実感をともなって。

 



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